田中河内介(たなかかわちのすけ)|明治天皇に最も慕われた男

紙芝居で見る『田中河内介』

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田中河内介
脚本 水木久美雄
絵畫 西 正世志
製作 日本教育紙芝居協會

(表紙の説明)
或る歴史家が、
『王政復古の土台は、鎮守様の神主と、
田舎医者の伜との協力で築きあげたのだ。』
と云ったが
神主とは、久留米の神官、眞木和泉守、
又、田舎医者の伜こそ、田中河内介である。
河内介は、文化十二年、但馬國出石藩香住(かすみ)の里(さと)で、
医師小森家の二男として生まれたが、
医者となることをこのまず
儒学や國学を修め、武術を研き
天保六年、京都に出で
中山大納言の家臣、田中近江(あふみ)介の長女増栄(ますえ)を妻とし
田中家をつぎ、田中河内介となり、中山家に仕へたのである。

(ぬきながら)
嘉永五年のよき日
皇子、中山大納言邸にて御降誕あらせらる。

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畏くも後の明治天皇にあらせられる
祐宮(さちのみや)睦仁親王様の御降誕には、
國をあげて御皇室の彌榮を壽ぎ奉った。

中にも、中山家の家臣である、河内介の感激は又ひとしほ深く、
この時以来、河内介は恐懼して、一身を大君の為捧げまつり、
王政復古の大業を起さうと固く決心したのである。

(短い間)
折も折

(早くぬきながら)

黒船来る!

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徳川三百年の夢を破る様に、

東からアメリカ、北からロシヤ、西からはイギリス、フランスが、
一時に我國に渡来した。

攘夷だ、否開港だと、天下は一斉にさわぎ立った。

つづいて攘夷論は尊王に、開港論は佐幕に結びつき、

世は益々乱れるばかりである。
がその時は、すでに

 (ぬきながら)

河内介のすむ、臥龍窟には、
多くの勤王の志士達が集ってゐた。

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(河内介)
『諸君、世間では開國を唱へ、或は攘夷を叫んで居るが、
しかし、先づ何よりも王政に還し奉る事が、一番大切な事なのだ。
天日をむかしに歸し奉る 誠の道はここに存するのだ。
諸君も、河内介と死生を偕(とも)にし、
國の礎石(すていし)となってもらひたい。』

(短い間)

世の中には、まだ、なまぬるい尊王攘夷論がはびこってゐた時に、
ひとり河内介のみは、激しい尊王討幕の意氣に燃えてゐたのだ。

(ぬく)

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大空の下を河内介親子は、希望に満ちて、九州に下ってゆく。

同志の人を広く天下に求めた河内介は
臥龍窟にとぢこもっては居なかった。

文久元年正月 三度九州の地を訪れたのである。

(河内介)
『左馬介、たのむにたる土地は九州だ。
だが、この父が最も望む所は
九州でも一番強力な薩摩藩と、協力する事なのだ。』

河内介は常にさう云った。

(ぬく)

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河内介親子は
先づ豊後國に小河一敏と始めて対面し

次に久留米の神主眞木和泉守
更に北九州尊王派の頭目平野國臣を訪づれた。

こおこ三人は各々心を開いて話し会ひ
やがて来るべき王政復古の大業を
着々と、準備したのである。

河内介は尚も阿蘇の大宮司をはじめ
九州一帯の勤王の志士を訪づれ
大成功をおさめた。

(ぬく)

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(河内介)
『左馬介、我等は一日も早く、日本の國を、
聖天子の御世に還さねばならぬ。
此度、そちを九州に伴ったのは、
この事を充分、知って貰ひたかったからだ。
今に遠からず、世の中に驚くべき事が起るであらうが、
その時は、父が例へどのやうにならうとも、
さはがず、必ず、父の志を継いでくれよ。』

(左馬介)
『父上、その折は、左馬介も父上と死を
偕にしたいと存じます。
なにとぞ、左馬介も國事の為死なせて下さい。』

(短い間)
その昔、吉野朝の忠臣、楠正成公父子の誠忠が、
今あらたに河内介親子の心によみがへってくるのだった。

(ぬきながら)

九州の旅を終へた河内介親子が京都の臥龍窟に
歸ってから約一年の間

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先づ、清河八郎等三名を始め、
河内介が最も望んでゐた薩摩藩精忠派代表の是枝が、
其後の九州の状態を知らせるなど、
臥龍窟には澤山の勤王の志士達が出入した。

一方世の中も、畏くも和宮様御降下についで、
幕府を非難するさまじの議論が涌き起り、
風雲たゞならぬものがあったので、河内介のすむ臥龍窟は、
とかくうたがはしい目で見られる様になった。
もはや一刻も猶豫(ゆうよ)できぬ。

この上は薩摩藩の上京をうながすより他に手はない。

河内介は、島津久光公のもとに行くことになった。
出発の期日もせまった二月十五日

(ぬきながら)

薩摩藩士柴山、橋口両人が臥龍窟を訪づれ
島津久光上京の事を知らせたのである。

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(河内介)
『なに、久光公は御家来一千余人と共に上京なされたと。』

(柴山)
『いかにも 二月二十五日御出発、江戸に下られる筈で御座る。
表面は参勤交代の期限遅延の御詫びであるが、
実は諸國の有志をひきゐ、一橋慶喜公を奉じて
義兵を東海にあげる御心で御座る。』

(河内介)
『かたじけない。我等の望やうやうにたたっし
この上ない喜びで御座る。』

(柴山)
『河内介殿、それについて貴殿始め同志の集合所で御座るが、
この臥龍窟ではとかく世間の目もうるさう御座るで
大阪の薩摩屋敷にうつされてはいかがと存ずるが……』

(河内介)
『ねがってもなき幸ひと存ずる。
柴山氏、なにとぞおとりはからひ下され。』

時が来た。
ねむれる龍は今や臥龍窟をすてて
大阪薩摩屋敷にうつるのである。

(ぬきながら)
それより早く、文久二年三月十六日
薩藩一千余人が鹿児島を出発した。

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しかし久光公は出発に際し
『各國の浪人輕輩、
尊王攘夷を名とし慷慨激烈の説を唱ふる、
輩との交際は、之を嚴禁す。
若し違背せば罪科申付ける。』
との訓令を発した程であり、

いたずらに事を起さず、
先づ公武合体をもって、おだやかに、
すまさうとしてゐたので、
久光公上京と共に、直ちに行動を起さうとした、
河内介たちの考へとは、根本的にくひちがってゐたのである。

大阪薩摩屋敷で久光の上京を、ひたすら待ってゐる
河内介と同志の人々との悲劇は、
この時早くも起りつゝあったのだ。

(ゆっくりぬきながら)

四月十日、久光は大阪についたが、しかし……

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(やゝ荒く)
『河内介殿、久光公の態度を、いかが思はれるか。
公武合体なぞと、あまりにもなまぬるい。
我等一同、薩摩と共に兵を起し、
すみやかに王政に歸し奉る事こそ本懐で御座る。
しかるに今の有様は、この薩摩屋敷に、
押込め同様では御座らぬか。

この上は薩摩なぞたよらずとも、 尊王の大義明白なる事を
久光公に示さうでは御座らぬか。

河内介殿、時は来て居りますぞ。
我等一同、御決意を待って居ります。』

(短い間)

河内介等が不満で居る事は、久光公も知って居られた。
情勢が不穏となって来たので、

(ぬきながら)

久光公の名をうけた、大久保一藏が、使ひとして
河内介のもとに来た。

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(大久保)
『河内介殿、今しばらくお待ち下され。
藩公には御内勅を蒙り、事は着々と進んで居ります。』

(河内介)
『大久保氏(うぢ)、事は運んで居るといはるるが、
事とは公武合体で御座らう。
我等の志す方は、王政復古唯一つで御座る。
公武合体では御座らん。
そもそも久光公には事を起される御決意は御座るのか?
我等一同は王政復古のためにのみ
久光公を盟主と仰ぎたかったのである。
今一度、この志を御主君まで、おつたへ下され』

雙方の意見はつひに一致しなかった。

(ぬく)

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(左馬介)
『父上、さき程の大久保氏(うぢ)の御言葉といひ、
久光公には、とても事を起す御思召はないと、愚考いたします。
この上は一刻も猶豫すべきでは御座いません。
何とぞ我等に御命じ下さい。
左馬介も、弱輩ながら、大君の為死なせて頂きます。』

(短い間)

(河内介)
(重くゆっくりと)
『左馬介、我等一同の散るべき時が来たのかもしれぬ。』

(左馬介)
(嬉しげに)
『では、御許し下さいますか。かたじけなう御座います。』

(しづかにぬく)

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(靜かに次第に熱して)

矢は弦を離れた。

四月二十二日の夜から、二十三日の朝にかけて、
同志の人々は、次々に小舟に乗込み、
淀川を遡って京都へ向った。
眞木和泉守のひきゐる、久留米の十人。
柴山、橋口等の十三人。
薩摩藩、有馬、田中等十二人
最後に小河一敏のひきゐる、岡藩一行と、
河内介親子が、
今こそ、
關白九條尚忠を倒し、王政復古の糸ぐちを作らうと、
勇んで船出した。

一行の集合場所は、伏見の寺田屋である。

(短い間)

がその時すでに

(早くぬく)

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(早く)

事は露見してゐた。
奈良原以下八人が、寺田屋目ざして、
伏見街道をまっしぐらに走ってゆく。

『主謀者を捕へて同伴せよ。
説諭を聽かぬ場合は臨機の處置を取ってよし。』
との久光の嚴命をうけて河内介達を取おさへにゆくのだ。

(ぬきながら)

そして寺田屋騒動が起った。

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(奈良原)
『河内介殿、君命で御座る。
すぐさま寺田屋をひきあげ、御一同とともに、
京都より久光公の面前に出て頂きたい。
久光公は、とくと談合いたしたいと申されるのだ。』

(河内介)
『談合?談合致してどうなる。
もはや事は起って居るではないか。』

(奈良原)
『いや、久光公は、実は明夜を期して、
總員協力、事を起さうと思って居られるのだ。
河内介殿! 御一同もそれに加はられたらいかがで御座る。』

(河内介)
『奈良原氏、それはまことで御座るか。
しからば、一同京の久光公の御前にまかりこすで御座らう。』

(ぬきながら)

しかし、奈良原の言葉は眞赤ないつはりであった。
河内介等を捕へる為の口から出まかせであったのだ。

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瀬戸内海を行く薩摩船
河内介等が、薩摩に護送されるのだ。

勿論、久光公との談合等許されなかった。
多年の苦心も空しく、くぢけたのである。

王政復古の大義に生きんとした身を、罪人同様に護送するとは、

河内介親子の悲痛な心中を知ってゐるかの様に、
空も灰色に曇ってゐた。

(短い間)

船が播磨國、垂水(たるみ)沖にさしかゝった頃
(ぬく)

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(左馬介)
『そんな筈はない。何かの間違ひだ。
父にも、それがしにも、再び起つ日まで
薩摩に居れと、乗船の折、そう云ったではないか。
我々は王政復古を見るまでは、
だんじて死ねない。
卑怯だ!船の中で殺す。
馬鹿な!そんな藩の命令があるものか。』

(河内介)
『河内介からも、おたづね致したい。
殺せとおほせられたのは、
それがし親子のみで、同志一同では御座らぬのか。』

(警衛)
『……如何にも、藩命で御座る……』

(河内介)
『左様で御座るか。同志一同無事と聞いて安堵いたした
同志さへ居るならば、
やがては、王政復古の大業もなるであらう。
左馬介、そちは父と死生を伴にする約束であったな。』

(ゆっくりぬきながら)

『ながらへて かはらぬ月を見るよりも
          死して拂はん 世々の浮雲』

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河内介は辞世の句を殘し、
左馬介と共に、從容として、死についた。

時に文久二年五月一日。
河内介は四十八才。
左馬介は、わずか十八才であった。

(短い間)

(ぬきながら)

かくして六年後、河内介親子の純忠は美事に實を結び、

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王政は復古し、
明治の御世は旭日の如く、輝き渡ったのである。

河内介の死は決して犬死ではなかった。

畏くも明治二十四年贈位の恩典に浴し、
靖國(やすくに)の御社(みやしろ)に祭られ、
今又、
小豆島(せうどとう)の哀悼碑、三開山(みひらきやま)の殉忠碑共に、

河内介親子の忠誠は、長く千載に香るであらう。
誠に田中河内介こそ、
明治維新の大いなるいしづえである。

(終)

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